「ポピュラーピアノ奏法」との出会い2010/05/01 12:13

私がこの本に出会ったいきさつは、音大の図書館で「ポピュラーピアノ」で検索し、ヒットしたことでした。今から10年ほど前になります(この頃は「ニューキーボードスタディ」というタイトルでした)。当時、私は音大でクラシックピアノを学んでいましたが、ポピュラー・ジャズピアノは初心者でした。コードは理解していたものの、どのように応用し、即興的に演奏したらよいのか全くわからず、よい教則本はないか探している、という状況でした。
さて、沢山借りても、案外ちょうど良いと思える本はないもので、簡単すぎてセンスの良さは?であったり、一貫性がなく、なんとなく内容が軽薄だったり・・・その中で、この本は全然違っていました。初心者の私でも、センス良く伴奏をつける方法や、デッドスポットを処理する方法がわかり、目からウロコが落ちる感じがしました。Exerciseはとてもわかりやすいし、実用例も沢山載っていて、それがとても洗練されていて、「こんなに素敵なサウンドがこのExerciseで手に入るなら頑張ろう!」というやる気が沸いてくるのです。
おかげで10度の伴奏音型やストライド奏法は、この頃、結構弾き込み、自分の中で自由に扱えるようになったと思います。何も弾けなかった所から、大きくランクアップでき、とても感謝したものです。
勿論、当時の私では理解できなかったことも沢山ありました。その先を理解したかったから、実際に稲森先生に習いたいと強く思い、教室の門をたたく決心をしました。この本は、知ろうと思ったらいくらでも教えてくれる、大変キャパシティの広い本です。
今、10年前よりは私もわかるようになりましたが、何かにつけて拠り所とし、その度に改めて発見することがあります。いつになったらこの本をものにすることができるのだろう。絶対に手放すことのできない、宝物の1冊です。
(文:間島佳代子)

間島佳代子ポピュラージャズピアノ教室

注:「ニューキーボード・スタディ」は「ポピュラピアノ・スタディ1,2」の合本です。現在はタイトルが「ポピュラピアノ奏法1,2」となっています。



ジャズ教育界の“ブランド”2010/05/06 22:26

イナモリ・メソッドはジャズ教育界の“ブランド”

稲森先生の講座のとき、質問をしたことがあります。
「先生。まわりのジャズの仲間たちは、私とちがいます。
『あんたみたいに、クラシック音楽のエリートで、きれいな世界ばかり来た人間にジャズなんかできるもんか。もっと、酒飲んで男遊びしなきゃ。』とみんなが言いますが、わたし、18歳でお酒やめたし、男も夫しか好きなヒトいないのでダメですか。」

先生は、汚いことを描く文学者が汚い生活をしなければならないわけではないこと、そして、ジャズはもはや、夜の暗い世界だけの音楽ではないこと、いまや大学で教える普遍的な音楽であること、などを話してくださいました。

「ポピュラーピアノスタディ」《注》をはじめとして、イナモリメソッドの教育法のすべてが、それをはっきりと語っています。従来の「感覚的ものまね」の次元をはるかに脱し、すべての人が、確実に、自らジャズ語がしゃべれるようになり、ジャズ語の「作文」ができるようになっていくやりかたが、この「イナモリ・ブランド」です。

(文:伊地知元子) 

《注》「ポピュラーピアノスタディ1,2」は現在「ポピュラーピアノ奏法1,2」というタイトルで発行されています。

「Inside Outside」第4回2010/05/11 22:10

稲森康利ジャズ講座
「Inside Outside」第4回目(5月9日)を受講して

5月9日、東京の最高気温は26.6度という暑い一日でした。でも気分は春。頭もノンビリAndanteで動いている状態に加えてこの夏日。講座がしっかり頭に入るかどうか心配でしたが(勿論、冷房は程よく入れてくださっていました)、講座が始まると頭はフル回転せざるを得ませんでした。でも多分、脳は少し興奮して喜んでいる様に思えました。

今回は正に刺激を伴った心地よさをもたらす「Out」が前回に続き更に多様化した方法で表現されていました。と同時に当然の事ながらOutする為に必要なテクニックとして身につけておかなければいけない練習課題も出てきました。
今回のポイントの一つであるモチーフのシークエンスには、次の3通りを12のkeyで移調する練習が欠かせないものと思います。
①Ⅱ-Ⅴのフレーズ②ダイアトニックのフレーズ③ペンタトニックのフレーズ
これらにポリリズムが加わったフレーズはとても魅力的でした。

バップスケールを用いたフレーズも出てきました。ジャズの歴史を担っているこの手法を編み出し、広めたミュージシャンの偉大さを思わずにはいられません。

Outの方法として、他にはアッパーストラクチャートライアドの技法、モチーフを半音上行または半音ダウンする方法、等等、とに角、前回にも増してひとつとして見落とす事は出来ない大事なフレーズの数々でした。そして思う事は、この素晴らしい「Inside Outside」を学ぶ事ができる幸運。この本を見出し教えお導き下さる稲森先生に深く感謝致します。ありがとうござました。
(文:山口万弥)

[音楽こぼれ話]“ジョージ・シアリング“2010/05/12 22:08

 独創的で洗練されたジャズ・スタイルと、作曲家としても、安定した成功を続けるジョージ・シアリング。1919年8月13日、ロンドンで、炭鉱夫の9人の子どもの末っ子として生まれますが、生まれつき眼が見えませんでした。家にはピアノがあり、3歳のころには、ラジオの音に合わせてピアノを弾いていたようです。正式な音楽教育は、盲学校での4年間だけでした。奨学金を勝ち取りながらも、それを断り、クラブでの演奏を続けました。

プロデューサー/音楽評論家のレナード・フェザーとの出会いによって、1937年に彼とのファースト・アルバムを録音し、本格的にプロデビューします。その後、BBCラジオの出演、高級サパークラブでの出演などを通して、人気が高まります。20代でデッカ・レコードと契約し、イギリスで一番売れるアーティストとなります。1941年には“メロディー・メーカー誌”イギリス・ジャズ部門の人気投票に名を連ね、以降7年間その地位を不動のものにしました。

1947年にはニューヨークに移住します。1949年、MGMからアルバム"セプテンバー・イン・ザ・レイン“を発表。これはピアノ、ベース、ドラム、ギター、バイブのクインテットの、いわゆる”シアリング・サウンド“といわれるものです。緻密に計算されたグループとしてのサウンド、洗練されたクールな演奏は、ビバップ全盛時代に新しい息吹を送りこみ、彼の人気を爆発的なものにしました。1952年にはアルバム”バードランドの子守唄“をリリース。これらの曲は彼の代表作となります。

1955年にはキャピタル・レコードと契約。ハーモニカのトゥーツ・シールマンスがギターを弾き、クインテットに参加したアルバム”シアリング・オン・ステージ“を1957年に録音しています。この頃にはレコーディングを通して、多くの共演者との出会いがありました。歌手では、ナット・キングコール、ペギー・リー、ナンシー・ウィルソンなどと共演しています。1979年からはコンコード・レコードとの専属契約を結び、1982年の“アン・イヴニング・ウィズ・ジョージ・シアリング&メル・トーメ”は、翌年にグラミー賞のジャズ部門を受賞しています。ジョージ・シアリングはコンサートなどで自らも歌い、いい声を聞かせてくれます。また、ラテン音楽や、クラシックにも傾倒しています。

彼は、大学などでのジャズ・ワークショップにも力を入れ、ジャズ・テクニック、アレンジ、アンサンブル奏法を熱心に指導しています。また、盲学校や盲導犬養成所でチャリティー・コンサートもたびたび催しており、盲導犬を扱ったテレビ番組の作曲・演奏だけでなく、役者やナレーターまでこなしています。現在も、盲人のための協会や大学・組織などで、福祉活動を続けています。

1996年、大英帝国勲章を受勲。2007年、ナイトに叙勲されるなど、人々の多くの尊敬を集めています。

(文章:池田みどり)

[音楽こぼれ話]“コール・ポーター“2010/05/26 22:06

 ジャズスタンダードの多くは、ミュージカルと共に生まれました。ブロードウェイミュージカルはその意味で、ジャズに新たな命を吹き込んだ立役者です。そこでもっとも注目されたのが、作曲家たちです。音楽が主役のミュージカルで、彼らはヒットするかどうかの命運を一手に引き受ける、キーパーソンでもありました。今回は作曲だけでなく、作詞も手がけながら、ブロードウェイの一時代を築いたコール・ポーターにスポットを当てます。

コール・ポーターは1891年6月9日にインディアナ州の大富豪の家に生まれました。6歳でバイオリン、8歳でピアノを習います。エール大学を卒業後、祖父の希望で弁護士になるべく、ハーバード大学で法律を学びます。しかし、エール大学時代からすでに300曲も作曲をしていたという彼は、音楽への想いが捨てられず、音楽家になることを決心します。ニューヨークに出ますが、挫折を経験し、パリに移り住みます。ちょうど、第一次世界大戦の最中でしたが、派手好きなコール・ポーターは優雅な毎日を過ごしていました。そこで、離婚歴のある裕福な女性、リンダ・トーマスに出会います。彼女は彼が同性愛者だということを知りながら、彼の才能に惚れ込み結婚をします。当時もっとも売れていた作曲家、アーヴィン・バーリンに引き合わせ、彼の才能を開花させるお膳立てをしたのも、リンダでした。生涯、彼女はコール・ポーターのビジネスパートナーとして、彼をサポートすることになります。

1928年に書いた作品「パリス」が世界中から脚光を浴び、本格的なブロードウェイでの仕事が始まります。彼の歌詞にはシニカルな視点があり、物議をかもし出すことも多かったようです。1930年、ミュージカル「ザ・ニューヨーカーズ」に提供した曲“ラヴ・フォー・セール”もそのひとつです。1932年には「陽気な離婚」が大ヒット。フレッド・アステアが歌った“ナイト・アンド・デイ”は彼の代表作となります。36年には映画にも進出し、エレノア・パウェル、ジェームス・スチュアート主演「踊るアメリカ艦隊」がヒットし、彼の曲が次々と世に出されるようになります。そんな矢先、1937年、46歳のとき、落馬事故で両足を骨折します。20ヶ月の入院後、生涯30回にも及ぶ手術をすることになります。

痛みの中でも彼は、コンスタントに仕事を続け数々の作品を送り出します。1948年の「キス・ミー・ケイト」はミュージカル最高の賞であるトニー賞を受賞。コール・ポーターの人気を不動のものにしました。

彼は生涯に870曲ほどの曲を書いています。代表曲にはWhat Is This Thing Called Love? (1930),Love for Sale(1930),Night and Day(1932),Begin The Beguine(1935), Easy To Love(1936),I've Got You Under My Skin (1936), You'd Be So Nice To Come Home To (1942),So In Love (1948)など枚挙にいとまがありません。

54年に愛妻リンダが肺気腫で亡くなり、58年には右足を切断しました。それ以降、彼は作曲活動に終止符を打ちました。リンダが彼の足を切断しないように医師に指示したために、コール・ポーターは一生痛みには悩まされましたが、彼女の言ったとおり、彼にはそれでも音楽をやるために、彼の自尊心のためにも、足が必要だったのでしょう。1964年、腎不全で亡くなりました。

コール・ポーターについては、彼の伝記映画が2本制作されています。ケーリー・グラント主演“Night and Day”(1946年)、そして2004年公開の”五線譜のラブレター“(ケヴィン・クライン主演)です。

池田みどり