[音楽こぼれ話]“アーヴィング・バーリン“2010/06/09 22:01

 ジョージ・ガーシュウィンに「アメリカのシューベルト」と言わしめたアーヴィン・バーリンは、アメリカのポピュラーミュージックの創始者と言える人です。もっとも世界で歌われている曲“ホワイト・クリスマス”の作者でもあります。

本名、イズラエル・バリン(Israel Baline)は、1888年5月11日、ロシア・モギリョフ(現在のベラルーシ)近郊の敬虔なユダヤ教徒の家に生まれます。8人兄弟の末っ子でした。5歳のときにニューヨークに移住します。ユダヤ教徒への迫害が原因だとも言われています。

8歳のときに父が亡くなり、小さいながらも生活のために働くようになります。そのため、学校教育も音楽教育も満足に受けることがなかったようです。16歳になると酒場でウェイター兼歌手として働き、自作の曲も歌うようになりました。彼は楽譜を書けず、ピアノもまともに弾けませんでした。黒鍵しか弾けないので、いつもF#のキーだったと言います。彼が鼻歌で歌うか、ピアノでポツポツと弾いたものを、誰かが楽譜に書き取っていました。

1909年に、後にジョージ・ガーシュウィンやコール・ポーターを世に送り出した楽譜街ティンパンアレイで、出版社と作詞家として契約。最初に出版された曲で”I.Berlin“とミスプリントされたため、”Irving Berlin“と改名をすることになりました。作曲も手がけ、自らボードヴィルにも出演しました。

1911年に“アレキサンダー・ラグタイム”が大ヒット。風俗に大きな影響を与えるほどのヒットだったようです。1915年に、第一次大戦が勃発します。彼は慰問のためのミュージカルに次々と曲を提供します。1918年には、第二のアメリカ国家として知られる“ゴッド・ブレス・アメリカ”を世に送り出します。1942年にはビング・クロスビー主演『スイング・ホテル』の劇中歌“ホワイト・クリスマス”がヒット。アカデミー歌曲賞を受賞します。徹夜明けのその日、オフィスに来るなり秘書に「すぐペンを執ってこの歌を書き留めてくれ。これまで作った中で最高の歌ができたぞ・・・これまで誰も書いたことがないくらい最高の歌ができた」とこの曲を書き取らせたそうです。

1960年代までミュージカルや映画のために作詞・作曲し、米国でもっとも売れる国民的な音楽家となりました。生涯で約3000曲といわれる多作な作曲家としても知られます。

第二次大戦後、『ショーほど素敵な商売はない』をヒットさせますが、1962年には引退をしています。引退後1968年には、グラミー賞の生涯功労賞を受賞しています。その後、101歳まで長生きをしました。

 彼の代表作には、次のようなものがあります。
Alexander's Ragtime Band (1911), Always (1925), Blue Skies (1927),How Deep Is The Ocean? (1932) , Easter Parade (1933),Cheek To Cheek (1935), God Bless America (1939),White Christmas (1942), There's No Business Like Show Business (1946)

池田みどり

[音楽こぼれ話]“リチャード・ロジャーズ“2010/06/22 21:57

『サウンド・オブ・ミュージック』の作曲家としてもよく知られているリチャード・ロジャーズ。ジャズスタンダードとしてもっともよく取り上げられる作曲家のひとりです。

彼は、1902年6月28日、ニューヨークのユダヤ人の外科医の息子として生まれました。両親とも音楽好きで、ブロードウェイのミュージカルの楽譜を買ってきては、夫妻でホームコンサートを開催していたほどです。リチャードは6歳から母にピアノを習い、14歳のときには、ミュージカルの作曲家になることを決心します。

1919年、17歳のとき、コロンビア大学の先輩である作詞家のロレンツ・ハートとコンビを組みます。早速2人の曲は出版されますが、なかなか芽は出ませんでした。1925年に「マンハッタン」がヒットし、ふたりは、ガーシュウィンも所属していたハームス・ミュージックと契約します。その後ロジャーズ&ロレンツ・コンビのミュージカル・ナンバーは次々にヒットを飛ばします。しかし、ロレンツはいつも小さな紙に詩を殴り書きしては、どこかに消えてしまうような人でした。アルコール依存症がひどくなり、肺炎をこじらせて48歳の若さで亡くなってしまいます。

同じコロンビア大学の先輩であるオスカー・ハマースタイン2世は、ロレンツとは正反対の性格の人だったようです。父親が劇場主だった彼は、その頃すでに、ミュージカル『ショーボート』のヒットで、作詞家としてのみならず脚本家としても成功していました。幼少時代からすでに顔見知りだったふたりは、1943年、リチャード・ロジャース&オスカー・ハマースタイン2世コンビでミュージカル『オクラホマ』を成功させます。このコンビは後に現在のブロードウェイの礎を築くことになります。

その後、ロジャース&ハマースタイン・コンビは、次々とミュージカルの傑作を世に送り出します。1945年に『回転木馬(Carousel)』、1949年には『南太平洋(South Pacific)』でアカデミー歌曲賞を受賞します。1951年には『王様と私(The King and I)』、そして1959年にはコンビの最後の作品である『サウンド・オブ・ミュージック(Sound of Music)』が大ヒットを収めます。ミュージカルでもっとも栄光とされるトニー賞は34回も獲得し、そのほか数々の賞を総ざらいにしました。

オスカー・ハマースタイン2世の遺作は「エーデルワイス」です。すでにガンに冒されていた彼は、『サウンド・オブ・ミュージック』が上演された翌年、1960年にこの世を去りました。彼の死後もリチャード・ロジャースは作曲を続けますが、ガンと心臓発作、卒中などに苦しめられます。最後の作品『ママの思い出』を書き上げた3ヵ月後、1979年12月30日、77歳でその生涯を終えました。

彼のブロードウェイへの多大な貢献を褒め称え、1990年には、ブロードウェイの46th street 劇場はリチャード・ロジャース劇場へと改称されました。また、1998年にはCBSニュースで20世紀にもっとも影響を与えた20人のひとりに選出されています。2002年には世界各地で、彼の生誕100年を祝賀記念イベントが開催されました。

 彼の代表作には、次のようなものがあります。
●代表作
【ロジャーズ&ハーツ】
Manhattan(1925),Blue Moon(1935),My Romance(1935),My Funny Valentine(1937),Spring Is Here(1938),Falling In Love With Love(1938),This Can’t Be Love(1938),Bewitched(1941)
【ロジャーズ&ハマースタイン】
Oklahoma(1943),It Might As Well Be Spring(1945),Sound Of Music(1959),My Favorite Things(1959),DO-RE-MI(1959),Edelweiss(1959)

池田みどり

「Inside Outside」第5回2010/06/23 21:56

稲森康利ジャズ講座
「Inside Outside」第5回目(2010.6.13)を受講して

第3回目から始まったジャズ分析は、今回5回目でEx.80まで進み、終了となりました。
今回は主に次のような特徴をもったフレーズを学習しました。
①V7を代理コードに置きかえ、それをⅡ-Ⅴに分けたフレーズ。
②keyC:Dm7-G7をDm7-Db7(G7の代理)に置きかえると、Db7にDm7のフレーズをすべて半音下げたフレーズが使える。
③keyC:Dm7-G7をG7に置きかえLydian7thを用いたフレーズ。
④keyC:Dm7-G7にWhole Tone Scaleを用いたフレーズ。

たった5回の講座でしたが、とても重要な知識をたくさん学ばせて頂きました。これからはその知識をフルに活用し(これが問題デス!)色々な場で実践に移さなければなりません。日々練習あるのみを肝に銘じます。

講座の後半は稲森先生のアレンジ曲集グレート・コンポーザーズ・シリーズ「ジョージ・ガーシュインvol.1」から「The Man I Love」の分析を行いました。
ビリー・ホリディ、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ボーンはじめ多くの女性ジャズ・ヴォーカリストに歌われているこの名曲はなんとも不思議な曲だと思います。長調の曲なのにブルージー。歌詞もSomeday he'll come alongで始まり、希望の裏に実現するとは思えないようなはかなさが綴られているように思います。稲森先生のアレンジは、すでにイントロからブルーノートを用いたレフトハンドとメロディでブルージーな雰囲気を創り、テーマに入ってからもイントロの余韻はかすかに残り、ドミナントペダルとも合わさって、一種、独特なムードが漂っています。曲の最後の8小節、KeyEbからkeyDへと意表をついた転調を行うというアイディアはどこからくるのでしょうか…。先生の非凡さを思います。先生のアレンジは、リハモナイズについてもどの曲でもメロディーに新たな色彩が生じ、素晴らしいと思います。

次回は最終回となりますが、またアレンジの分析をして頂けるとの事でたのしみにしています。
(文章:山口万弥)