[音楽こぼれ話]“ヴィクター・ヤング“2010/08/04 21:43

 ヴィクター・ヤングは、多くのおなじみのスタンダードナンバーをハリウッドに提供し、ヒットさせた作曲家です。1899年8月8日イリノイ州シカゴのユダヤ人の一家に生まれます。父親はシカゴ・オペラ・カンパニーのテナー歌手でした。10歳のときに母が亡くなり、ポーランドのワルシャワに住む叔母に引き取られ、祖父母に育てられました。ワルシャワ音楽院でバイオリン教育を受け、有望なコンサート・バイオリニストとしてヨーロッパツアーをし、多くのオーケストラとの共演を果たします。米国に戻り、映画館のオーケストラと共演後、指揮者兼バイオリン奏者として1920年代をテッド・フィオ・リト・バンドとともに活動し、その後シカゴラジオ局でも指揮者として活躍することになります。

1931年、ニューヨークに移り、レコード会社ブランズウィックと契約を結びます。彼はスタジオ用のバンドリーダーとしては、ビング・クロスビー、アル・ジョルソンら多くの歌手と共演します。1934年にはデッカレーベルと契約を結び、1936年、ロサンゼルスに移り住むまで、ニューヨークでのレコーディングに明け暮れました。1935年、パラマウント映画“Anything Goes”の音楽監督の初仕事のために、西海岸に移りますが、そこから彼の本格的なハリウッド映画との関わりが始まります。1940年までの間に立て続けに3本の映画をヒットさせ、彼はハリウッド映画になくてはならない人になりました。1939年には”オズの魔法使い“のテストレコーディングの指揮もしており、ジュディ・ガーランドらが、彼の編曲で歌っています。

 彼は22回もアカデミー賞にノミネートされていますが、残念なことに生きている間に受け取ることはありませんでした。死後、1956年に「80日間世界一周」で初受賞しています。ハリウッドでの活動期間は20年あまりでしたが、300曲以上を提供し、映画の音楽監督としても、またラジオなどでも大いに活躍をしました。主な映画は以下のとおりです。
『ゴールデン・ボーイ』(1939年)、『誰が為に鐘は鳴る』(1943年)、『ラブレター』(1945年)、『サムソンとデリラ』(1949年)、『愚かなり我が心』(1949年)、『血闘』(1952年)、『静かなる男』(1952年)、『戰う雷鳥師団』(1952年)、『シェーン』(1953年)

カリフォルニア州パームスプリングスで脳出血のため57歳の若さで亡くなりました。ヴィクター・ヤングは稀代稀なヒットメーカーでした。しかし、この記事を書くにあたり、あまり彼にプロフィールに関する資料が見つからなかったことに、むしろ驚きました。コール・ポーターやジョージ・ガーシュウィンなどの逸話を多くは残さなかったのは、彼はただまっすぐに音楽と映画に打ち込んでいたためでしょう。そのメロディは私たちの心にいつまでも残っています。

●代表作
Beautiful Love (1931), Love Me Tonight (1932), A Ghost of a Chance (1933), Stella by Starlight, Love Letters (1946), Golden Earrings (1947), My Foolish Heart (1950), When I Fall in Love (1952), Around the World (1956).


池田みどり

『THE JAZZ PIANO BOOK』 第6回2010/08/06 21:42

稲森康利ジャズ講座
『THE JAZZ PIANO BOOK』 第6回目を受講して 2010.7.25

今回はメロディック・マイナー・スケール・ハーモニーの講義でした。前回勉強したメイジャー・スケール・ハーモニーのマイナー版がメロディック・マイナー・スケール・ハーモニーです。

メイジャー・スケール・ハーモニーだとⅠ度はイオニアン、Ⅱ度はドリアン、Ⅲ 度はフリジアン…となるのですがメロディック・マイナー・スケール・ハーモニーになるとⅠ度がマイナー・メジャー、Ⅱ度がsus♭9、Ⅲ度がリディアン・オーギュメン ト、とあまり聞き慣れないようなスケールが並びます。この考え方は普通の理論書には載っていないそうです。
7つのスケールの中で今回はマイナー・メジャー、リディアン・ドミナント、ロ クリアン#2、オルタードをとりあげ、どのコードの時にどのスケールを使ってアドリブすれば いいのかなどを習いました。

稲森先生はピカソがお好きですが、マイルス・デイヴィスの話題が出た時に、マイルス・デイヴィスもピカソと同様自分の型にとらわれず、どんどん音楽を開拓していった為、アメリカのミュージ シャンのトップに立ったのだと話されました。

次回もメロディック・マイナー・スケール・ハーモニーの続きです。

(文:川地千賀)

新・講座「ポピュラーピアノ奏法」第1回2010/08/16 21:39

稲森康利ポピュラーピアノ講座
新・講座「ポピュラーピアノ奏法」を受講して 第1回目(2010年8月8日)

新しい講座が始まりました。私がこの「ポピュラーピアノ奏法1,2」(当時のタイトルは「ポピュラー・ピアノ・スタディ1,2」でした)を購入したのはおよそ15年位、或いはもっと前になるでしょうか。ずっとホテル・ラウンジ、クラブなどで演奏していた私は、この2冊にずい分と助けられたものでした。初版は1の方が1982年1月21日、2の方が1892年12月1日となっています。初版から約30年、未だに、そしてこれからも演奏者に必要とされる本だと思います。今回、私は初心に戻り、復習を兼ねて受講させて頂くことにしました。

講座はいきなりExerciseからのスタートです。Intervalの問題でしたが、私は購入した時点で答えを書き込んでいたので、殆ど確認もせずに稲森先生にみて頂いた所、あきらかなミスがありました。とても恥ずかしかったのですが、購入した当時に比べ、間違いが解かる様になっただけ成長したのだと思う事にしました。学びの第1歩であるコード(和音)の書き方は異名同音の場合、どう書いたら良いか、大体の人が迷ってしまうところです。Gbm6,Gb7,Db7等の表し方は大切な学習だったと思います。稲森先生はどの講座の時も、音の用いられ方をクラシックと対比させ、例えば今回のTensionについては、クラシックではドビュッシーやラベルにより使われ始めたています、という風な解説をして下さいます。クラシックとジャズ、この両者の共通点、又は異なる点の分析は、とても興味深く、面白く学ばせて頂いています。

今回、倍音の響かせ方について「エ!こんな方法で聴けるんだ!」といった驚きの方法を教えてくださいました。この倍音列から導き出された伴奏音型は演奏の基礎となりますが、倍音を聴く前と聴いた後では何だか違ったものがある様に感します。今回の範囲はこの伴奏音型に入ったところまでです。

長い歳月を経て、改めてのこテキストを読むと、いつも何気なく読んでいた稲森先生の解説文の的確さがよく解かりました。それは読む人に正確に伝えるという意味に於いて、その一字一句の表現の大切さをも痛感した講座でもありました。
稲森先生、1回目の講座をありがとうございました。これからもどうぞ宜しくお願いします。

文:山口万弥

講座テキスト:「ポピュラーピアノ奏法」

[音楽こぼれ話]“アントニオ・カルロス・ジョビン その1“2010/08/18 21:35

ボサノバの創始者として知られ、20世紀ブラジル音楽を代表する作曲家/編曲家であるアントニオ・カルロス・ジョビン(愛称:トム・ジョビン)。彼はブラジルに古くからあったショーロなどの民族音楽に、クラシック、ジャズなどをミックスさせ、独特の音楽ジャンルを作り出しました。ボサノバの歴史自体はまだ50年ほどですが、その影響力を世界に知らしめたのは、彼の才能と人柄もあったのかもしれません。

1927年1月25日、ブラジル、リオ・デ・ジャネイロに生まれます。8歳のとき、詩人でありコラムニストであった父親が亡くなってしまいます。少年時代はイパネマ~コパカバーナと移り住みます。彼がピアノを始めたのは案外遅く、13歳のころでした。母親が開いた私立学校に置いてあったピアノとの出会いが彼の人生を変えたのです。ドイツ人のハンス・ヨアヒム・ケールロイターにピアノを習うことになりますが、ハンスは現代音楽などにも傾倒するクラシックの枠に囚われない先生でした。彼からハーモニーや高等な音楽理論を学んだことが、後々の彼の音楽性の高さに通じるのでしょう。

 堅実な性格のトムは、音楽で生きたいとは思いながらも、生活のために建築家を目指します。22歳で幼ななじみのテレーザと結婚。長男パウロも誕生します。しかし、音楽の夢を捨てきれず、ナイトクラブでピアノを弾く仕事を始めます。生活は厳しいものでした。コンチネンタル・レコードに入社し、当初は曲の譜面起こしや編曲の仕事などをこなしました。1953年にオデオン・レコード(EMI・ブラジル)と契約し、アーティスト兼レコーディング・ディレクターとして採用されることになります。実績をあげた彼は作曲家としても認められ、「リオ・デ・ジャネイロ交響曲」という15分にもわたる大作を作曲しました。

彼がブレイクするのに一役買ったのが、国民的な作詞家、ヴィニシウス・ジ・モライスとの出会いです。詩人としても有名なヴィニシウスは、外交官であり、ジャーナリストでもある、影響力の多大な人でした。1956年、彼の制作した舞台「オルフェウ・ダ・コンセイサォン」で、音楽監督として若手のトム・ジョビンが起用されました。のちに映画「黒いオルフェ」として世界的にヒットしました。このオープニング曲「フェリシダージ」は国民的な曲となります。その後、この黄金コンビは多くの名曲を生み出しました。

ここで登場するのが、ジョアン・ジルベルトです。彼のギターと歌はトムが求めていたサウンドを具現化するものでした。1958年、ヴィニシウスとの共作「シェガ・ジ・サウダージ(想いあふれて)」をジョアンがリリースし、これがボサノバの歴史的な幕開けとなります。また、ジョアンのセカンド・シングルでは「デサフィナード」が録音されました。この新しい音楽スタイルは、徐々に若者たちに支持され、ボサノバ・ムーブメントが起こります。気をよくしたオデオンはジョアン・ジルベルトにアルバムを作らせます。ジョアンはトムとは正反対の性格でした。天才肌で完ぺき主義のジョアンは、自分の気の済むまで録音し、スタジオ内の雰囲気は一触即発の状態だったと言います。1960年に録音されたこのアルバム「愛、微笑み、そして花 O Amor, o Sorriso e a Flor」は名作となりました。

次回は、ボサノバの代表的なアルバム「ゲッツ・ジルベルト」のエピソードから。

●代表作
The Girl From Ipanema, Água de Beber, Chega de Saudade / No More Blues,A Felicidade, Meditation, Desafinado, One Note Samba, Picture in Black and White, Sabia, Dindi, Corcovado / Quiet Nights of Quiet Stars, Samba do Avião / Song of the Jet, Wave, Águas de Março / Waters of March, Jazz ‘N’ Samba, How insensitive,

池田みどり

イナモリ・メソッド 2グレード取得!2010/08/21 21:33

2010年7月のオーディションでは、川地千賀さんが2グレードを獲得しました。
おめでとうございます!
2グレードは高い演奏力があることはもちろんですが、プロレベルのアレンジ力も必要で、なかなか合格が難しいのですが、川地さんは1回目の挑戦でみごと合格されました。
川地千賀さんは東京音楽大学作曲科卒。稲森康利先生に師事。現在、ラウンジやイベント、ブライダルなどのピアニスト、イナモリ・メソッド通信教育講師として活動中。昨年は「感動の映画音楽 名曲選」(中央アート出版社)の出版にあたり、アレンジを提供しました。