[音楽こぼれ話]"ジョージ・ガーシュウィン その2“2010/04/14 06:07

 ラグタイムは、黒人のピアニスト、スコット・ジョップリンの奏法によって一躍有名になり、その後白人のアーヴィング・バーリン作曲「アレクサンダーズ・ラグタイム・バンド」(1911年)の大ヒットで、アメリカポピュラー音楽の主流となりました。1920年代には、ニューオリンズから持ち込まれたディキシーランド・ジャズが人気が高まりました。

クラシックバイオリニストだったポール・ホワイトマンはジャズを、白人のためのダンス音楽として上手に融合させました。1924年、彼が指揮するパレ・ロワイヤル・オーケストラが「アメリカ音楽とは何か?」という企画のもとに、エオリアン・ホールでコンサートを開きました。審査員の中には、高名な作曲家のラフマニノフもいたといいます。そのとき、ジョージ・ガーシュウィンの才能に目をつけたホワイトマンの要請で、発表されたのが“ラプソディー・イン・ブルー”です。作曲したのはまだ彼が24歳のときでした。当時、ガーシュウィンはオーケストラ編曲の知識はなかったので、ファーディ・グローフェが編曲に協力しています。

もともとが勉強熱心なジョージは、オーケストレーションを学ぶために、ストラヴィンスキーを訪ねています。すでに作曲家として成功していたジョージに、『どうすればそこまで収入を上げられるのかこちらが教えてほしい』と言われたといいます。また、ラヴェルからは『あなたは既に一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要はないでしょう』と断られたそうです。

 1935年には、デュボース・ヘイワードによって書かれた「ポーギーとベス」のオペラ化に挑戦しました。黒人の生活を奥深く描いたこの作品は、当時の話題をさらいます。それまでオペラは白人のものでした。この中では“サマータイム”がみなさんご存知の曲でしょう。黒人の子守りが、白人の赤ん坊に歌う子守唄です。

 ハリウッドに移り住み、作曲に励みますが、わずかその2年後、脳腫瘍のため、突然この世を去ります。まだ38歳でした。その短い音楽人生で、舞台作品の数は50曲にのぼり、その中でオペラは2曲、ミュージカルが50曲を誕生させていますが、意外なことに映画音楽は4曲しか残されていません。管弦楽曲は7曲、室内楽曲は2曲、ピアノ曲は10曲、そして歌曲は 500曲も残されているそうです。

 まさに作曲に人生を駆け抜けていった天才といえるでしょう。彼の中には、ジャズもクラシックも、ジャンルを隔てるものはなかったからこそ、これだけの曲を今の世に残すことができたのかもしれません。

※次回はオスカー・ピーターソンをお送りします。
(文章:池田みどり)

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