[Jazz on Youtube]“George Shearing Quintet”2011/03/15 03:25

ジョージ・シアリング・クインテット “Swedish Pastry”

http://www.youtube.com/watch?v=LxmIvXm6uIU&feature=player_embedded


 ヴァイブとピアノとギターがユニゾン、あるいはハーモニーでメロディーを奏で、それをベースとドラムが支える、都会的なサウンドで一世を風靡した、ジョージ・シアリング・クインテット。クール・ジャズの第一人者として知られているジョージ・シアリングを今回のJazz on Youtubeでは取り上げます。

 ジョージ・シアリングは1919年8月13日ロンドンに生まれ、生後間もなく視力を失います。音に対して敏感だった彼は、3歳でピアノを始め、その虜になったようです。1937年頃からプロとして活動し、初レコーディングも行っています。その後、音楽評論家でありプロデューサーでもあったレナード・フェザーに認められました。イギリスでの活動時期には、ジャズ・ヴァイオリンのステファン・グラッペリとも共演をし、国民的な人気を得ました。

 レナード・フェザーの計らいで、1947年に渡米。1949年、ヴァイブ、ピアノ、ギター、ベース、ドラムスのクインテットを編成し、MGMレコードと契約します。都会的でクールなサウンドは絶大な支持を得ました。同年“9月の雨”が大ヒット。1952年には“バードランドの子守唄”を作曲し、その名声を不動のものにしました。サラ・ボーンなどの多くの歌手に好まれ、歌われました。

 1955年、キャピトル・レコードに移籍。翌年には米国に帰化しています。1950年代には、トゥーツ・シールマンス(ハーモニカ)が当時はギタリストとして、カルテットに参加しています。キャピトルからは彼が好きだったラテン音楽を中心の数枚のアルバムを発表しています。

 1982年には、メル・トーメ(Vo)とライブ録音した『アン・イヴニング・ウィズ・ジョージ・シアリング&メル・トーメ』を発表。翌年、グラミー賞のジャズ部門を受賞しています。メル・トーメとは数々のアルバムをレコーディングし、彼はピアノだけでなく、歌も歌い、その才能も見せています。

 1996年には大英帝国勲章、2007年にはナイトに叙勲されるなど、英国でもその名声が忘れられることはありませんでした。2011年2月14日、ニューヨーク州で亡くなりました。満91歳でした。

 カルテットの小気味よいスピード感。無駄のないハーモニーとクールさ。ブロックコード奏法もよくわかる映像ですね。何年に撮影されたか、メンバーもわかりませんが、ジョージ・シアリング・カルテットの神髄がわかる映像だと思います。曲目は“Swedish Pastry”。

池田みどり

[Jazz on Youtube]“Thelonious Monk~Round About Midnight”2011/02/28 04:09

セロニアス・モンク “Round About Midnight”

http://www.youtube.com/watch?v=OMmeNsmQaFw&feature=player_embedded

 セロニアス・モンクはその独特なスタイルで異端児あるいは天才として知られています。パーカッションのように鍵盤を叩き、難解なハーモニーを奏でる姿とはうらはらに、彼の紡ぎ出すメロディは高潔で美しく、人々のイマジネーションを豊かに呼び起こします。ビ・バップの時代に孤高な姿勢をつらぬいたセロニアス・モンクとはどのような人だったのでしょう?

 1917年10月10日ノース・キャロライナ州レッド・ロウに生まれ、6歳でニューヨークに引っ越します。姉がピアノの練習をするのを見て、自然に彼も弾けるようになっていたと云います。11歳からは正式な音楽教育を受けますが、彼にとってはむしろ物理や数学、そしてバスケット・ボールの方に興味があったようです。特に物理や数学は天才的だったという伝記に書かれているようです。ニューヨークに移って数年後、父親が精神の病に冒され、ノース・キャロライナに一人で戻りますが、そのまま安否もわからない状態になり、母親はひとりで3人の子供を養わなくてはなりませんでした。高校を中退後、福音伝道者の楽団とともに2年間全米ツアーを経験し、プロのピアニストとしてキャリアを積むことを決心します。ツアー終了後はビ・バップ発祥の地となった“ミントンズ・プレイハウス”を中心に活動を始めました。

 理解されることの少なかった彼に才能を見出したのが、ブルー・ノート・レーベルのオーナー、アルフレッド・ライオンでした。当時ビ・バップの録音を本格的に始めようとしていた彼はできるだけ無名の新人で作品を作ることを構想します。1947年、モンクはブルー・ノートと5年契約を結び、代表作をつぎつぎと発表します。1952年、プレスティッジ・レーベルと契約し、アート・ブレイキー、マックス・ローチとのトリオ、ソニー・ロリンズとのカルテットのアルバムを録音しました。1955年にはリバーサイド・レーベルと契約を交わします。この時代にレコーディングされたアルバム”Brilliant Coners”“Thelonious Himself””Monk’s Music”は彼の代表アルバムとなります。彼のジャズ界の巨人として名前を馳せるようになります。1961年、ついにメジャーレーベルであるコロンビアと契約し、チャーリー・ロウズ(Sax)とのカルテットで海外ツアーなどの活動をしました。

 しかし、彼の精神状態は1950年代からすでに芳しくなく、’51年には麻薬所持で逮捕されています。一説では双極性障害(そううつ病)だったのではないかと云われており、父親を精神の病で喪失した経験が彼にとっては一生ついて回ったのかもしれません。しかし子どものように純粋だったという彼には、一生を彼に捧げた妻ネリーという理解者、そして彼のパトロンとして金銭的・精神的に彼を支え続けた男爵夫人パノニカ・ケーニングスウォーターがいました。1971年のロンドンでのレコーディング後、外出しなくなり、自閉症になったのではないかとされています。1982年2月17日、脳出血で亡くなりました。
1989年にはクリント・イーストウッド監督がセロニアス・モンクのドキュメンタリー“Straight, No Chaser”を制作しています。

 このYoutubeの映像はいつ撮影されたものか説明がないため、わかりません。しかしセロニアス・モンクのピアノに対する子どものような純粋でかつ、真摯な姿を垣間見ることができる貴重な映像です。

池田みどり

[Jazz on Youtube]“Keith Jarrett ~My Funny Valentine”2011/02/16 04:07

キース・ジャレット “My Funny Valentine”
 
http://www.youtube.com/watch?v=l-phggJG2sM&feature=player_embedded

バレンタインディの由来は269年ローマ皇帝の迫害のもとで殉教した聖ヴァレンティヌスを記念するものと云われていますが、諸説あり、どれが正しいかはわかりません。19世紀に英国でバレンタインディにチョコレートボックスを売り出したことから、バレンタインとチョコレートのつながりは始まったようです。ただし、これほどにチョコレートにこだわるのは、日本独特の文化のようです。

 さて、“My Funny Valentine”はミュージカル『ベイブス・イン・アームス』のために、リチャード・ロジャース(作曲)、ロレンツ・ハート(作詞)のゴールデン・コンビによるものです。「不格好で、ギリシャ彫刻には程遠いあなた。会話だって上手じゃない。でもそのままでいて。髪の毛一本変えないで。私のバレンタイン」という歌詞。バレンタインとは、恋人のことです。

 キース・ジャレットは3歳からピアノのレッスンを受け、8歳の頃にはプロのピアニストとして演奏したという経験の持ち主です。高校時代にジャズに目覚め、バークレイ音楽院でジャズを学び、キャリアを積みました。1965年にアート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズのメンバーとなります。1970年にはマイルス・ディビスのバンドに、参加。チック・コリアとともに、ツイン・キーボードとしてオルガン、エレクトリック・ピアノなどを担当します。在籍中、ヨーロッパツアー中に出会ったECMレーベルのオーナー、マンフレート・アイヒャーとの出会いで、新しい境地を開拓します。

 ピアノソロでは『ザ・ケルン・コンサート』など、完全即興演奏のアルバムを次々と録音し、音楽界に衝撃を与えました。その一方、「アメリカン・カルテット」(チャーリー・ヘイデン(Bs)、ポール・モチアン(Ds)、デューイ・レッデマン(Sax))や、「ヨーロピアン・カルテット」でのバンド活動も並行しました。1983年に再結成された「スタンダーズ・トリオ」(ゲイリー・ピーコック(Bs)、ジャック・ディジョネット(Ds))による『スタンダーズVol.1~2』はスタンダードの名曲をコレクションしたもので、1980年以降のキース・ジャレットの活動の主軸となりました。

 80年代から90年代にかけてはクラシック音楽のレコーディングを続けざまに行っています。1996年、突然襲った疲労感のため活動を休止します。慢性疲労症候群と診断されました。約2年間の休止後、スタンダード曲をほとんどアドリブなしに弾いたピアノソロアルバム『メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー』を発表。それとともに、再び精力的な演奏活動を続けています。

 この映像はスタンダーズ・トリオによるもの。キース・ジャレットの音に対する感情移入が彼の表情から読み取れます。

池田みどり

[Jazz on Youtube]“Antonio Carlos Jobim~Garota de Ipanema”2011/01/31 10:37

ジョアン・ジルベルト “ The Girl From Ipanema”

http://www.youtube.com/watch?v=DSJ5xZci9mI&feature=player_embedded

 ボサノバは、そのリズムを生みだしたジョアン・ジルベルトと、メロディの宝庫であるアントニオ・カルロス・ジョビンのふたりの出会いがなければ、ありえませんでした。

 アントニオ・カルロス・ジョビンは生活のため、ナイトクラブでピアノを弾いていました。彼の運命を変えたもうひとりが、詩人であり外交官でもあったヴィニシウス・ヂ・モライスです。彼の劇作「オルフェ」の音楽担当の仕事が舞い込みます。アントニオはよほど生活に追われていたのでしょう。会うなり「いくらもらえるんですか?少しでいいから前金がほしい」と云ったそうです。この劇作は映画化され、大ヒットをします。後に、ふたりのコンビは多くのヒット曲を生み出しました。

 一方、ジョアン・ジルベルトも貧困の中にいました。リオに出て来たものの、仕事もなく夢破れる半ばでした。しかし彼は新しい音楽の追及をやめませんでした。彼のお気に入りの練習場所はバスルームでした。この音響効果が、ギターのリズムと語るような歌い方をみごとにミックスしたのです。ある晩、ロベルト・メネスカルの家でのパーティがあり、多くの人々が集まっていました。ロベルトが玄関のドアベルを聞きつけ、ドアを開けると見知らぬ男が立っていました。「ギターを貸してくれないか。演奏したい」と云います。「演奏する場所なんかない」と断ると、「ギターを弾く場所ぐらいどこにでもあるだろう」と云います。仕方なく居間に通すと、さっそくギターを弾き出しました。それは、まさにロベルトが求めていた音楽だったのです。もちろん、その男とはジョアン・ジルベルトでした。

 ジョアンとジョビンはお互いの才能にほれ込み、お互いを必要としました。ボサノバはブラジルの若者たちに熱狂的に受け入れられます。話題のなった新しい音楽は米国でいきなりカーネギーホールデビューを果たし、市民権を得ました。

 さらにボサノバを世界的にヒットさせたのが、アルバム“Getz/Gilberto”です。このレコーディングは最悪な雰囲気の中で行われました。ポルトガル語のわからないスタン・ゲッツのために、ジョビンが通訳することになりました。完璧主義のジョアン・ジルベルトは、「スタンはボサノバがわかっていない。バカだ」などと罵倒しました。ジョビンは全部を訳すことはなく、傷つけないように間をとりもつ必要がありました。ジョアンとジョビンの性格は水と油でした。数年のうちに、ふたりの親交は途切れました。

 ジョビンは、1994年、ニューヨークで亡くなりました。彼の死を悼んで大統領令が出され、国民は3日間の喪に服しました。後にジョアンは、彼の死について尋ねられると、泣きだしてしまったため、インタビューは最後まで続行できなかったほどだったと云います。

 このYoutubeはジョビンの晩年だろうと思います。ふたりにとって、この再演は長年の夢だったに違いありません。ふたりの嬉しそうな顔が印象的です。貴重な映像です。

池田みどり

[Jazz on Youtube]“Herbie Hancock~Watermelon Man”2011/01/17 10:50

ハービー・ハンコック “Watermelon Man”
http://www.youtube.com/watch?v=dowhfQ0Fkns&feature=player_embedded

 現代のジャズ界でもっとも存在感を保ち王者の風格を持つのが、ハービー・ハンコックです。常に時代を先取りし、ジャズの動向の舵取りをしてきました。今回は彼の名をブレイクさせた“Watermelon Man”のプロモーションビデオらしきものをお見せします。

1940年4月12日、イリノイ州シカゴで生まれた彼は7歳でピアノレッスンを始め、なんと11歳でシカゴ交響楽団と共演しています。ジャズは高校時代に始め、大学では音楽と電子工学の二つの分野で博士号も取得しているインテリです。20歳でドナルド・バードに見出され、プロとしてキャリアをスタートしました。

1962年に初アルバム“Takin’ Off”をリリース。収録された“Watermelon Man”は、大ヒットし彼の名を知らしめました。翌年にはマイルス・ディヴィスに抜擢され、約5年間にわたり彼のグループに在籍します。この間に代表作”Maiden Voyage”(処女航海 1965年)などを発表。1973年には世間を騒がせたアルバム”Head Hunters"を発表。エレキトリックなサウンドで、ジャズの枠を広げました。1976年にはウエイン・ショーター、トニー・ウィリアムス、フレディ・ハバードらと"V.S.O.P.クインテット”を結成し、世界ツアーを成功させます。1983年のアルバム”Future Shock"では、ヒップホップを取り入れ、クラブ・ミュージックに大きな影響を与えました。1986年には映画『Round Midnight』の音楽監督を務め、アカデミー作曲賞を獲得しています。1998年にはジョージ・ガーシュウィン生誕100年を記念し”Gershwin World"、2002年にはジョン・コルトレーンの生誕75年を記念した”Directions in Music"を発表。2008年にはジョニ・ミッチェルへのオマージュ”River: The Joni Letters"で43年ぶりのジャズでのグラミー賞最優秀アルバム賞を受賞しています。1983年から11回ものグラミー賞を手にしており、まさにジャズ界の巨人です。

 ハービー・ハンコックの弾く姿は完璧にちかいのではないでしょうか?彼の手の動きは無駄がなく、姿勢にも風格があります。プライベートな感じでラフに”Watermelon Man"を弾いている姿がちょっと珍しいですね。インタビューにも答えています。訳は以下の通りです。
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アフリカン・アメリカンとしての自分自身の経験に基づいた曲を書こうとしていたんだけれど、ご存知のとおり僕はシカゴ生まれだし、刑務所に入った経験もなければ綿をつんだりした経験もない。ただ自分のバックグラウンドにあるキャラクターについてなら書けるかもと思ったんだ。そこで僕は考えた。僕のバックグラウンドの中で、誰が最もエスニックな存在だろうと。それがスイカ売りだったんだ。それがどれだけスライスしたものだろうが、僕自身は育てたことがなかろうが。
最初は、スイカ売りの呼び声のことを考えていた。「スイカ~、スイカ~、真っ赤でおいしいスイカ~」。ただこれはあまりメロディックに聞こえない。では裏口でスイカ売りに呼びかける女性はどうだろう。
「ヘーイ、スイカ屋さん!」
ワーオ。
「ヘーイ、ウォーターメロンマン!」
こうやって、メロディーが始まったんだ。」
(訳:MARKA)
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池田みどり