[音楽こぼれ話]“コール・ポーター“2010/05/26 22:06

 ジャズスタンダードの多くは、ミュージカルと共に生まれました。ブロードウェイミュージカルはその意味で、ジャズに新たな命を吹き込んだ立役者です。そこでもっとも注目されたのが、作曲家たちです。音楽が主役のミュージカルで、彼らはヒットするかどうかの命運を一手に引き受ける、キーパーソンでもありました。今回は作曲だけでなく、作詞も手がけながら、ブロードウェイの一時代を築いたコール・ポーターにスポットを当てます。

コール・ポーターは1891年6月9日にインディアナ州の大富豪の家に生まれました。6歳でバイオリン、8歳でピアノを習います。エール大学を卒業後、祖父の希望で弁護士になるべく、ハーバード大学で法律を学びます。しかし、エール大学時代からすでに300曲も作曲をしていたという彼は、音楽への想いが捨てられず、音楽家になることを決心します。ニューヨークに出ますが、挫折を経験し、パリに移り住みます。ちょうど、第一次世界大戦の最中でしたが、派手好きなコール・ポーターは優雅な毎日を過ごしていました。そこで、離婚歴のある裕福な女性、リンダ・トーマスに出会います。彼女は彼が同性愛者だということを知りながら、彼の才能に惚れ込み結婚をします。当時もっとも売れていた作曲家、アーヴィン・バーリンに引き合わせ、彼の才能を開花させるお膳立てをしたのも、リンダでした。生涯、彼女はコール・ポーターのビジネスパートナーとして、彼をサポートすることになります。

1928年に書いた作品「パリス」が世界中から脚光を浴び、本格的なブロードウェイでの仕事が始まります。彼の歌詞にはシニカルな視点があり、物議をかもし出すことも多かったようです。1930年、ミュージカル「ザ・ニューヨーカーズ」に提供した曲“ラヴ・フォー・セール”もそのひとつです。1932年には「陽気な離婚」が大ヒット。フレッド・アステアが歌った“ナイト・アンド・デイ”は彼の代表作となります。36年には映画にも進出し、エレノア・パウェル、ジェームス・スチュアート主演「踊るアメリカ艦隊」がヒットし、彼の曲が次々と世に出されるようになります。そんな矢先、1937年、46歳のとき、落馬事故で両足を骨折します。20ヶ月の入院後、生涯30回にも及ぶ手術をすることになります。

痛みの中でも彼は、コンスタントに仕事を続け数々の作品を送り出します。1948年の「キス・ミー・ケイト」はミュージカル最高の賞であるトニー賞を受賞。コール・ポーターの人気を不動のものにしました。

彼は生涯に870曲ほどの曲を書いています。代表曲にはWhat Is This Thing Called Love? (1930),Love for Sale(1930),Night and Day(1932),Begin The Beguine(1935), Easy To Love(1936),I've Got You Under My Skin (1936), You'd Be So Nice To Come Home To (1942),So In Love (1948)など枚挙にいとまがありません。

54年に愛妻リンダが肺気腫で亡くなり、58年には右足を切断しました。それ以降、彼は作曲活動に終止符を打ちました。リンダが彼の足を切断しないように医師に指示したために、コール・ポーターは一生痛みには悩まされましたが、彼女の言ったとおり、彼にはそれでも音楽をやるために、彼の自尊心のためにも、足が必要だったのでしょう。1964年、腎不全で亡くなりました。

コール・ポーターについては、彼の伝記映画が2本制作されています。ケーリー・グラント主演“Night and Day”(1946年)、そして2004年公開の”五線譜のラブレター“(ケヴィン・クライン主演)です。

池田みどり

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